· ひとりごと

苦しむ人の心をもっと、広く、深く、楽にしてあげたい。

これは、わたしが修験道で得度(とくど:仏門に入ること)しようと決意した多くの理由の中のひとつです。

自分でいうのもアレですが、わたしは年齢の割に多くの苦しみを経験してきたと思います。

あるときはアパートの4階の自室の窓の手すりに立ち、人生の最後の一歩を踏み出そうと震え、

あるときはファンタジーの世界の不幸な主人公のように、異世界への扉がそのうち必ず現れるはずだと信じ、

あるときは本当に鬱になり恐怖と絶望と無気力しかない世界にいました。

よくその中で『生きる』という選択をし続けたなぁ、えらいなぁ、とおもいます。

幼少期、父が転勤の多い職種だったため、数年ごとに引っ越しをし、不器用で愛想のないわたしは引っ越すたびにいじめの対象になりました。

しかし何事も繰り返すうちに法則が見えてくるもので、

少しずつ、いじめる側といじめられる側の心理、人気者になる人の傾向、学校カーストの上層に君臨する人の傾向、大人の柵(しがらみ)や、第三者目線での自分の親の分析ができるようになりました。

わたしはおそらく小学校を卒業する時点で、かなり正確に人の心理や性格を読めるようになっていたと思います。

と同時に、

苦しんでいる人の心理状態、そしてその痛みを、ものすごく繊細に察知できるようになりました。

すべては経験から。

経験はデータベースとなる。

そしてわたしはそのデータベースをもとにPDCAを繰り返し、

一つの揺らぎない結論を幼いころに導き出しました。

”ヒトは、共感を求める生き物である” と。

菩薩行

得度をするとは、仏門に入ることだと初めに書きました。

それはつまりどういうことかというと、菩薩行(ぼさつぎょう)をするということです。

菩薩行とは、人のためになることをする、という意味です。

ところで、菩薩さんっていろんな方がいらっしゃいますよね。

地蔵菩薩さん、観音菩薩さん、弥勒菩薩さん、普賢菩薩さん、、他にもいろいろ。

仏教では皆、悟り(さとり)を得ることを目指して修行をしますが、この菩薩さんたちはまだ悟りは得ることができていない方々です。

つまり、菩薩さんも修行中の身なのです。

修行中の身ですが、彼らは人を救います。

ちなみに悟りを得た方々を如来(にょらい)さんといいますが、もちろん如来さんも人を救います。

両者何が違うかというと、菩薩さんは如来さんよりもわたしたち人間に近い立ち位置で私たちの事を見守り、救ってくださるのです。

たとえて言うなら、

如来さんは日本武道館レベル、菩薩さんはライブハウスレベル、という感じでしょうか。

如来さんはものすごくでっかく救う

菩薩さんはもっと身近で救う。下手したらピンポイントで救う。

そんなイメージです。

で、

わたしたちは得度をしたとしてもまぁ人間ですから、菩薩さんには程遠いのですが、菩薩さんを見習って常に菩薩行をするのです。

いろんな苦しい修行をしながらも、人のためになること、人を救う努力をする。

それが菩薩行というひとつの修行であるのです。

そしてわたしは、菩薩行がしたかった。

もちろん菩薩行は得度をしなくたってできます。

だれだってできます。

ではなぜわざわざ得度をするのか。

わたしにとって得度をする意義は二つあって、

一つは莫大なデータベースがそこにあること。

もう一つは助けを求める人が訪れてくれること。

お寺は、意識して菩薩行をしている人が集まる場所。

そして救いを求める人も集まる場所。

彼らは大抵いろんな経験をしてきた人たちであり、いろんな菩薩行をしてきた人たち。

その人たちの話を聞き、行動を見、心理をよむことはわたしにとって大きな学びです。

より多くの苦しむ人の心を、より深く、より早く救うために、

わたしは得度をして、生きてゆく中でのミッションとして菩薩行をすることを選びました。

救うということ

人は共感を求める生き物です。

しかしその共感は、経験したものにしかできない。

薄っぺらい共感は、時として人を傷つけてしまう。

深い共感と、苦しみを乗り越えた経験からくるリアルな言葉が、本当の救いになるのだと、

わたしは自分自身の経験から学びました。

苦しみを共感するのはつらいことです。

それは苦しみを思い出すことと同等だから。

ですが、

その苦しみから少しでも救われたところに出会うと、その何倍も何倍も幸せになる。

その苦しみから抜け出した時の喜びも知っているから。

多くの人を救うには、多くの苦しみを知らねばならないのだと思います。

だから世界中の宗教の教祖や開祖たちは、人間であるときに苦しい経験をたくさんしたというお話が残っているのだと思います。

そう思うと、

たくさんの苦しみを越え、わたしが今ここに生きているという意味とは、、、

 あぁ、そうか。

 これがわたしの使命だったのか。

『自分が人生に何を期待するかではなくて、人生が自分に何を期待しているのかを考えなさい』

という、哲学者ヴィクトール・フランクルの言葉をご存知でしょうか。

わたしは大学生のころにこの言葉に出会いました。

鬱から抜け出そうともがいていたころです。

目からうろこでした。

『人生が、、期待すること、、。』

一気にこの解を求めるのは難解なので、分解して一つずつ答えを求めてきました。

会社員だったころは、

上司に何を期待されているのか → 会社に何を期待されているのか → 業界に何を期待されているのか → ... といった具合です。

いろんな節目節目でこの問いを思い出し、解を求めてきたのですが、

これまで『人生が自分に何を求めているのか』の問いまでたどり着けたことがありませんでした。

その解がやっとわかった気がします。

わたしの人生は、わたしに何を期待しているのか。

なぜこんな人生を歩ませたのか。

苦しみの穴はいろんなところにポコポコあいていて、わかっていても落ちてしまうし、落ちたことがわかっても自分ではなかなか抜け出せないものです。

その穴は、一度落ちてしまうと、急に孤独になったような気持ちになります。

たとえ孤独ではなくても、だれもこんな自分なんて助けてくれないのではないかと不安になります。

その恐怖はとても大きく、強い。

そんなとき、

「大丈夫だよ」

「みんなそばにいるよ」

「あなたは愛されているよ」

「ほら、その穴は全然深くないよ。出ておいで」

と、救いの手を差し伸べられるような、

そんな人でありたいと思います。

そして、だれもがそんな想いをもって生きる世の中になっていけばいいな、と思います。

せっかくこの世に人間として生まれたのですから。

ふー

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