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もう少し私について考える

· ひとりごと

ひとつ前の記事に、私の性分は「怒りっぽい一匹狼」だと書いたが、いろいろと考えていたらそういうわけでもないような気がしてきた。

一人は楽だけど、ずっと一人だと不安になるし、誰かに会いたいって思うなぁ。って。

これは日本人だから?それとも人間だから?

少し前に、ネットニュースで「人の幸福感は人と人が交流することのみから生まれる」みたいなのを見た。

そりゃそうだ。と思った。

言葉を交わせ、気持ちをつたえられる生き物が周りにたくさんいる環境で、誰からも関心を持たれず孤独に暮らすのはそれだけで承認欲求が損なわれるから。

特に日本人は群れたがるとよく聞くけれど、先日読んだ古神道と日本人の生活に関する書物に日本人が群れたがる理由の面白い解釈が書いてあった。

古神道の中でも氏神・祖霊信仰からの考察。

昔は各集落に氏神がいて、人々に恵みを与えていた。

氏神はその集落の人だけにしか関わらない。要するに氏神にはテリトリーがあり、そのテリトリー内の人々は氏子と呼ばれた。

氏子という立ち位置に上下はなく、皆一様に『氏子』であった。

氏子たちは氏神のために毎年供物を奉納し、祀り事をした。

そして氏神はその見返りに氏子たちに恵みを与えた。

ただし、もし氏子のなかに氏神の気に障る者がいたらどうなるか。

祟りや厄災が起こる。

その者一人でなく、氏子たちに一様に。

だからもしそのような、所謂ズレた者が出たら、氏子たちはその者をテリトリーから追い出した。もしくは追い出すための施策をした。

それが村八分(無視)だ。

金銭ではなく、助け合いで生きていた古代の日本人にとって、村八分は死を意味した。

だから、氏子たちは村八分にならないために皆同じように生き、働き、ズレないように、「同じ」になろうとした。

このDNAが私たち日本人には擦り込まれているのだという。

村八分という風習はごく近年まで実際にあった風習だ。

いや、今もある。

 『いじめ』 だ。

そういう視点で見ると、日本人の血は太古から現在まで受け継がれているんだなぁ、と思う。

そして少なからず私にも。

日本人にとって、交流・人とのつながりとは『幸福』というよりは『安心』ではないかと思う。

私も多少なりともそうだから。

なぜだか、安心するんですよね。変だなぁ。

ところで、私はゲストハウスで何がしたいのだろう?(唐突)

人と一緒にいて安心したい?

うーん。

いや、それは違うなぁ。

そりゃ安心はするのだろうけど、別にゲストハウスじゃなくていい。

・・・はっきりと断言はできないけれど、

きっと、仲間を、同類を見つけたいのだと思う。

私の楽しいと思うものを楽しんでくれる仲間。

私の面白いと思うものを面白いと言ってくれる仲間。

私の好きなものを理解してくれる仲間。

きっと、いままで私が「私は一匹狼」だと思っていたのは、私の周りに居心地のいい場所が見つけられなかったから。

だから私にとって居心地のいい場所は、『私』だったのだと思う。

私は居心地のいい場所を自分で作って、居心地のいい仲間を集めたいのだと思う。

そして、私のような『自称一匹狼の迷い猫』の家になりたいのだと思う。

「きみはひとりじゃないんだよ」

って

私や迷い猫に

教えてあげたいんだと思う。

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